#7 一日二日制

 

人に与えられた時間は平等。

だから、他人よりも充実させ、効率的に、無駄にしないように生きなければならない。ぼくは、社会に充満したこの考え方に少々の違和感を覚えている。

それは、ぼく自身が、人の倍の人生を歩んでいたことがあるからだ。

 

ぼくは、新卒で入社した会社で法務部の一員として働いていた。大学まで一応体育会の野球部(実態は野球サークルに毛が生えた程度のものだったが・・・)に入っていたため、社会人になったら営業をやるんだろうなぁと、先輩たちの進路からぼんやり考えていたが、会社に入ってみると法務部というところに配属された。

その会社の法務部は、朝九時から夕方の五時半まではある程度忙しいが、五時半以降残業する先輩はほぼおらず、仕事が残っていても明日やる、というスタンスだった。ぼくも当然それにならって“法務部らしい”生活を送っていた。

 

九時五時の生活を送ったことがある人はわかると思うが、夕方から夜にかけて、非常に時間がある。暇なのだ。ぼくはあまり友人と飲み歩くタイプでもなければ、ジムで自分の体をいじめるタイプでも、自己研鑽や勉強に時間を費やすタイプでもない。五時半に家に帰ったところで、ご飯を食べて寝るくらいしかやることがないのである。

そこで、ぼくはご飯を食べた後、一回寝てみることにした。ソファで仮眠をとるわけではない。しっかり仮のパジャマに着替えて、ベッドで寝てみることにしたのだ。すると、二時間後くらいに自然に目が覚めた。お風呂に入っていない、歯も磨いていない状態の自分に脳が嫌悪感を覚えるのか、朝まで寝てしまうということはなく、だいたい夜の八時半から九時くらいに起きるのである。しかも、目覚めが抜群にいい。頭も働くし、やる気にも満ち溢れている。ぼくは思った、一度寝て起きた、これは新しい一日が始まったのではないか、と。

ぼくだけの二日目は、基本的に何もしなくていい休日である。仕事をしなくていいし、ご飯も一日目に済ませているため食べなくていい。好きなときに洗濯も掃除もすればいいし、本を読んだって、ゲームをしたって、外で散歩したっていい。ニートみたいな一日を送ることができるが、親のすねをかじっているわけではないため、「そろそろ働けば?」「いつまでそんな生活をしてるの!」とうるさく小言を言われる心配もない。

二日目が休みということはどういうことか。それは、ずっと飛び石の祝日が連続しているようなものだ。一日働いたら一日休み。この繰り返しだと思っていただければいい。もう聡明なみなさんならお分かりだと思うが、最高なのだ。一日二日制は人生無双状態なのである。ちなみに、二日目もしっかり翌一時くらいに眠くなるから不思議なものだ。

この生活は、ぼくが転職したことによって終わりを迎えた。

 

この経験から、ぼくは、みんなそんなにせっかちに生きなくてもいいのではないかと思っている。もちろんやる気が漲っていて、楽しいなら思う存分張り切ればいいが、他人よりも充実した時間にしようと自分を奮い立たせて頑張ることもない。

時間は有限ではない、無限だ。人の倍生きれば、可能性は無限大なのである。

 

#6 青家物語


祗園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。
おごれる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし。
たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ。

 

物事には始まりがあれば、終わりが必ずあると言うが、案外そんなこともないかもしれない。『平家物語』の冒頭でも同じようなことが書かれているが、令和のこの時代、終わらないものも実は出てきているのではないかと思っている。

みなさんは「ニベアの青缶」をご存じだろうか。あの、薬局はもちろん雑貨屋にも売っている丸い青い缶に入ったクリームである。正式名称はわからないが、ぼくは、この「ニベアの青缶」を愛用している。

 

ニベアの青缶は基本的に終わらない。

中に入っているクリームが一向に無くならないのだ。ぼくは高校卒業と同時に上京し、そのときに初めてニベアの青缶を買った。おそらく何らかの理由で危険だ!ということで禁止されていて山を越えてこなかったのか、地元の長野ではこの青い缶を見たことがなかった。それから今まで十年以上愛用しているが、クリームを使い切った記憶がない。今使っている青缶も一年前くらいに帰省したとき実家には青缶がなかったため購入したものを持ち帰ってきのだが、まだ残っている。いや、残っているというか、終わる気配すらない。あの時のままの青缶がそこにいる。

おそらくニベアの青缶の中では使った分だけクリームが増える、自家培養しているのだ。それは終わらないわけである。

 

ぼくはお肌のケアの九割以上をニベアの青缶に頼り切っている。青缶に入っているクリームの効果・使用時の注意事項などをよく読んだことがないので使い方が合っているかは不明だが、保湿したいとき、唇に潤いがほしいとき、ニキビができてしまったとき、肌を白く見せたいとき、マッサージ用のクリーム、日焼け止めの代わりとして、ぼくはニベアの青缶を塗っている。それらお肌に関する悩みはニベアにかかれば一網打尽なのである。そう、二ベアの青缶は万能のスキンケア商品なのだ。

これだけスキンケア商品が売れていて、今後環境破壊が進み、寒暖差が激しく乾燥や紫外線の影響が強まることを考えれば、お肌のケアが不要になることは考えにくい。そんなときにはニベアの青缶が最適だ。オールインワンですべてを解決なのである。中に入っているクリーム自体が終わらない、しかも万能。この大スキンケア時代はニベア時代と言い換えることができるだろう。

盛者必衰のこの世界において、ニベア時代は終わらない。

#5 顔面という名の宇宙

 

ぼくは、ほかの人よりもホクロが多い。

父さんも母さんも姉ちゃんも弟もホクロが多いというわけではないため、遺伝ということでもなさそうだ。小さい頃の写真を見てもホクロはほとんど見当たらない。しかし、今や数えきれないほどの黒い点々がある。昔の人がぼくの顔面を見たら、「これはオリオンに見えないか?」、「ここら辺をつなげて北斗七星って呼ぼう。」などと盛り上がりそうである。

 

なぜ、こんなにもホクロが多くなってしまったのか。その原因は、おそらく小学校から大学までやっていた野球のせいだろう。十年以上野外でボールを投げている間、一回も日焼け止めを塗ったことがなかった。日光の蓄積はすさまじく、ホクロは年々増え続けている。明らかなインドア派となった今でも増え続けているのだ。

 

「ホクロいいなぁ」と言われることがたまにある。

顔面には大量にホクロがあるため、一般的に言われるようなセクシーなホクロ、かわいいホクロ、知的なホクロなどは取り揃えている。そういう面ではいいのかもしれないが、一番厄介なのはホクロが増え続けているということだ。この増え続ける現状を知らないから「いいなぁ」などと軽々しく言えるのである。

 

ホクロが増え続けるということは、いつこれが終わるかもわからないということだ。つまり、空き家には入居者が現れる可能性が当然にあり、最終的に満室となった場合、顔が黒いひとつの丸になってしまう。そうなれば、いくらぼくが端正な顔立ちをしていたとしても取り返しがつかないことになってしまう。


では、顔が黒いひとつの丸になってしまった場合、どうしようか。それを考えておいた方がいいだろう。先の時代の流れを読んだ者のみが生き残れるのがこの厳しい世の中だ。

「黒い丸男」になった場合、何かしらの研究対象になりそうだ。街中でそんな人を見たことがないから、きっと国や組織が放っておくわけがない。そうなると、当然どこか山奥か海の近くの研究所に連れていかれ、その中心部の地下にある、真っ白な部屋に閉じ込められるだろう。その真っ白な部屋の真ん中には机と椅子だけが置かれていて、そこで四方からカメラで監視されながらの生活になる。黒い丸男に自由は与えられない。与えられるのは、三食と実験のみだ。一か月日光を全く当てない検査とか、海の中で海水越しに日光を当て続けたらどうなるかという検査もさせられそうだ。

 

黒い丸男は仕事を失い、生活も失う。
みなさんにこれからやりたいことがあるなら、必ず日焼け止めを塗って外出することをおすすめする。研究所での生活が嫌ならば。

#4 自己紹介


無口で無表情だと、何かを考えていると思われることが多いが、そんなことはない。

 

いくつかエッセイを書いているが、ここまで特に自己紹介をしないで来てしまったので、ここら辺でやっておきたいと思う。

ぼくは、喜怒哀楽があまり表情や言葉に出ないタイプだ。というよりも、喜怒哀楽があまりない、感じないタイプなのかもしれない。いや、人や物事にあまり関心がないからか、心が揺らぐ回数が非常に少ないといった方が正確かもしれない。

何か目標を達成しても、渋谷の交差点でわざと肩をぶつけられても、テレビでネコを見ても感情が動くことはほぼないし、「全米が泣いた」と評判の映画を見ても泣けた試しがない。

 

こんな感じで過ごしていると、得することもあるが、当然損だなぁと思うこともある。

得したことといえば、どこへ行っても、「こいつ、なんかいい案出しそうだな」と思われることだ。黙っているし、表情も動かないとなれば、何かを深く考えているに違いない、自分の世界を持っているタイプの人間だと勝手に判断されることが多い。みんなが話術や大きめの相槌で存在感を示す中、何もせずにノーカロリーで一目置かれることができるのは、大きなプラスだと感じている。

ぼくは昔野球をやっていたが、小・中・高・大、四つのカテゴリーの全てのチームにおいて「何か考えていそうだ」という理由で謎の発言権を与えられていた。何か行き詰ったり、議論が紛糾したりしたときに監督やコーチから意見を求められることが多かった。野球部には基本的に静かな奴はいない。その環境の中での無口無表情は逆に光っていたのかもしれない。

損だなぁと思ったことといえば、どこへ行っても「こいつ、何を考えているかわからないから怖いな」と思われることだ。皆さんご存じだと思うが、人は会話や表情でコミュニケーションを取る。しかし、ぼくはそれをほとんどしない。そうすると、次第に敬遠されていく。人は、よくわからない、共感してくれない人を怖いと感じるようにできているようだ。こちらからすると、表情豊かで、まくしたてるように話してくる人の方がよっぽど怖いと思うが、そうではないらしい。その証拠に、ぼくは小さいころから、いつもみんなの輪の中心にいる人気者になったことがないし、リーダーなどのまとめ役を任されたこともない。

 

「ねえ、何を考えているの?」「何を考えているかわからないから、教えて。」と聞かれることが頻繁にある。この質問が、ぼくは大の苦手だ。

なぜか、それは、ぼくが基本的に、何も考えていないからである。その質問への回答を持っていないのだ。無口で無表情なのは、本当に「無」だからなのである。何も考えていないのに、勝手に一目置かれるし、勝手に怖いと思われる。本当に困った状態だが、この状況が三十年続いてきた。

 

そんなぼくでも感情が動くことがある。同じような無口で無表情な人を見つけたときだ。なんだか友だちになれそうな気がして、思わずニヤッとして話しかけに行ってしまう。ただ、その人が、ニヤッとして嬉しそうにたくさん話してくるやつと友だちにならないのは、ぼくが一番わかっている。

#3 悪夢のような質問


「休みの日何してるんですか?」

「好きな音楽とかありますか?」

 

飲み会や意見交換会の際はもちろん、日常の中でも繰り返されるこの質問が、ぼくは苦手だ。この質問をするのも、されるのも、背筋がゾッとするほど苦手なのである。

これは「趣味はなんですか?」を言い換えた、答えやすくした質問で間違いないと思う。会話のほとんどは趣味からの発展であるため、これを聞くのは、ある意味で当たり前だ。人に会って、これを聞いておかないと会話が始まらない。お店に入って、注文もせずにずっと座っている人が居ないのと同じく、ごくごく普通の質問だ。

それはわかっている上で、なぜこの質問が苦手かというと、マウンティングの温床だからである。

 

ぼくは今King Gnuにハマっている。だから、今「好きな音楽とかありますか?」と聞かれれば、「あ、King Gnuとか聞きますね。」と答える。その場合返ってくるのは大体三パターンのマウンティングワードだ。

一つ目は「え!じゃあ日産とか行きました?」という、ライブ現地マウンティングだ。「好きならライブとか行くよね?」という、謎の勢力からの悪夢の返しである。ぼくはユーチューブを見るだけのKing Gnu無課金勢である。現地に行くほど好きではない。もちろん家の近くでやってくれて、かつ、チケットをくれるなら行く。でもチケット争奪戦を勝ち抜き、暑い中遠くまで出向くほどの熱はない。

二つ目は「じゃあ、井口さんのラジオ聞いてました?」という、メンバー個人活動マウンティングだ。「King Gnu好きなら当然メンバーのことも知ってるよね?ね⁉」という、これまた謎の勢力からの悪夢の返しである。ぼくはユーチューブで『白日』と『逆夢』だけを聞いているKing Gnu特定曲推し勢であるため、メンバー個々の活動は何一つ追っていない。追う気もないし、それを強制されるのであればKing Gnu特定曲推し勢もやめようと思う。

三つ目は「あー、人気だよね。」という、お前の趣味は個性がないマウンティングだ。「なーんだ、ミーハーか。もっと趣味にオリジナリティ出してこいよ。」と言わんばかりの自分の趣味は個性的で確立してると思っている謎の勢力からの悪夢の返しである。いや、お前が聞いたんだろ!だいたいオリジナリティとか個性のある回答したらそれはそれで、知らねーよ!とか言ってくるだろ!と言いたくなる。

もし、この悪夢の質問をしてしまった場合、相手の回答に対しての返し方の正解は「へ~、聞いたことあります。どんなのでしたっけ?」これである。これは明らかに上から目線ではない上に、興味も多少はありそうだからだ。

 

何事もそうだが、物事は最初が肝心だ。会話の最初から悪夢のような時間が流れないよう、お互いに気をつけたい。誰かを、知らず知らずのうちに傷つけてしまわないように。

こんなことを考えているから、ぼくには友だちが少ない。

#2 私はロボットではありません

「人生は選択の連続である。」

 

劇作家シェイクスピアの名作『ハムレット』の中の有名なセリフである。この言葉はぼくが生活する今の世界にも大きく影響を与えていて、きっとみなさんも一度は聞いたり言われたりしたことがあるのではないだろうか。

 

確かに、人生は選択の連続だ。

現代社会は、細部にまで選択の網が張り巡らされている。しかも、その人の価値観やルーツにかかわるような重い選択を簡単に迫ってくるから厄介だ。

 

先日、ぼくのスマホに再ログインを促す画面が表示された。ログインIDとパスワードを入力した後、写真が九枚表示され、「山のタイルをすべて選択してください。」という指示、その下にチェックボックスと「私はロボットではありません」という宣言が出てきた。ぼくはクイズが好きではあるが、この「私はロボットではありませんクイズ」は苦手だ。この「私はロボットではありませんクイズ」は、非常に難しく、重い選択を迫ってくるからである。

このクイズで難しいのは、「山」をどう捉えるかである。ぼくは長野県で生まれ育った。長野に行ったことがある人はわかると思うが、長野は四方八方を山に囲まれている。生まれてからずっとどこを向いてもその先には山が見えていた。千メートルを越える山々に囲まれた環境で育ったぼくの基準で考えたとき、高尾山は大きめの「丘」だ。しかし、高尾山はその名のとおり「山」なのである。このクイズにおいても同じ問題が発生する。

「山か丘か」問題である。

この写真は大地が盛り上がっているが、低めであるから「丘」と判断すべきか、それとも高尾山的な「山」なのか。これは、ぼくのルーツに問いかけるタイプのクイズなのだ。非常に重い選択なのである。

 

なら、大地が盛り上がっていればとりあえず「山」と回答すればいいではないか。そう考える方も多いだろう。ただ、それはあまりにも安易な考えだ。なぜかというと、ロボットは「大地ガ盛リ上ガッテイル、コレハ山ダ」という判断は容易にできそうだからだ。このクイズは、自分自身がロボットではないことを証明することで正解に近づく。つまり、人間であれば「山か丘か」くらいの判断はできるだろうという前提で正解が設定されているはずだ。非常に難しい選択である。

このクイズにはほかにも種類がある。「信号のタイルをすべて選択してください。」や「車のタイルをすべて選択してください。」がその代表例だ。車クイズは比較的簡単だが、信号クイズは山クイズ同様難問である。信号を支える「棒」の部分は信号と判断してよいのか。ぼくは信号の専門家ではない。テレビで見たことがある「信号大好き少年」も、コレクションとして「棒」は集めていなかったと思う。ということは、あの部分は信号ではないのか。

 

ぼくは再ログインのたびに、自分の価値観やルーツと向き合っている。自分がロボットではないと証明するのは、あまりにも難しい。選択を誤ると「人生」ではなく「ロボ生」を歩むことになるのだから。